sleep princess's mischief
さて、これはどうするべきか。 ロンドンはウェストエンドの一等地に建つホワイトリー家の庭で、ジャックは途方に暮れて目の前の光景を見つめていた。 カントリーハウス育ちのお嬢様のために、と常時庭師が持てる力を遺憾なく発揮して調えられた庭は、五月を迎え色とりどりの花が咲き誇っている。 普通の貴族の屋敷なら抜かれてしまいそうなヒナゲシやシロツメクサもホワイトリー家では大事な庭の彩りだ。 もちろん英国伝統のローズガーデンも今が盛りと美しい花を次々と咲かせている。 屋敷の主人であるエミリー・ホワイトリーがまだ年若く、明るく快活な性格のせいか、植えられた薔薇もどちらかというと可愛らしく優しい香りのものが多い気がするのは、きっとジャックの気のせいではないだろう。 そして今。 その柔らかい薔薇の香りが風にのって運ばれてくる庭の東屋には。 「・・・・すー・・・・」 茨に囲まれて眠るお姫様ならぬ、春の日差しに包まれて寝息を立てる探偵見習いのお嬢様が一人。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・不用心すぎるだろ。」 おそらく眠りに落ちる直前まで読んでいたであろう本を胸に抱えたまま、すいよすいよと眠るエミリーを見下ろす形で、ジャックは長い沈黙の後にぼそっと呟いてしまった。 屋敷の敷地内とはいえ、若い娘が野外で眠りこけるというのはどうなのか。 一瞬、イーストエンドという極めて治安の悪い地域で産まれ育った自分だからの感覚なのか、とも考えたが、再度エミリーに目を移してみても、やっぱりどうみても無防備かつ、不用心にしか見えなかった。 「・・・・はあ。」 数拍置いてジャックの口からため息が零れる。 (ペンデルトンさんにエミリーを捜してこいって言われたけど、まさかこの状況まで予測して・・・・?) まさか、と思う反面、なんとなくあの千里眼かと思うような執事ならこのぐらいの事態を予測していそうな気がした。 (・・・・だとしたら、起こしてこいってことだな。) 急ぎではないが、エミリーでないと決められない仕事があるから、と申しつけられた事も合わせて思い出しつつ、ジャックは再びため息をついた。 東屋のテーブルにはティーセットが用意してあるが、おそらく一人で読書がしたいとでも言ったのだろう。 周囲にメイドの姿はなかった。 「・・・・起こす、か。」 残念ながら助けになりそうなものはない、と判断したジャックは観念してテーブルをまわって、エミリーに近づいた。 「・・・すー・・・・」 東屋に木陰を落とす梢がさわわさと風に揺れて降らす心地の良い音の合間に、エミリーの寝息が聞こえる。 ベンチに腰掛け、東屋の柵に背を預けるようにしてエミリーは眠っていた。 ふんわりと広がるストロベリーブロンドの髪にきらきらと日差しが反射して、ジャックは目を細めた。 (たく、気持ち良さそうに眠りやがって・・・・) 確かに風も日差しも心地良く、時折届く薔薇の香りもとても気持ちを緩ませるが、ここで本当に寝てしまうのがエミリーだな、と思ったら少しおかしくなった。 「・・・・貴族のお嬢様が、そんなんでいいのかよ。」 「・・・んー・・・」 からかうような言葉をかければ、まるでわかっているかのようにエミリーがちょっと眉間を寄せた。 慌てて気を引き締めるが、すぐにエミリーはまた気持ち良さそうな寝顔に変わった。 穏やかになった寝顔になんとなくほっとして・・・・ほっとした自分に呆れた。 (起こさなきゃいけないのに、何やってんだ、俺。) これから安眠を中断させようという者が、安らかな寝顔に安心するなど本末転倒だ。 けれど。 (・・・・こいつのこういう顔、弱いんだけど。) 安心しきったような優しいエミリーの寝顔を再度見て、ジャックは三度目のため息を零した。 エミリーはジャックが見つけた、たった一つの宝物だ。 エミリー自身も、エミリーを想う気持ちも全てがジャックにとって初めて出会う綺麗で温かい光。 それを奪おうとするものや曇らせようとするものが何よりも許せない。 が、しかし。 「・・・・この場合はしかたがないよ、な。」 いくら気持ち良さそうに寝ているとはいえ、ここは心を鬼にして起こさねば、戻ってこないジャックに気が付いたペンデルトンがやってきてこの状況を見たら、なんだかんだで確実にお説教だろう。 「えーっと、あー・・・・起きて、ください。お嬢様。」 やっと覚悟を決めてジャックは声をかけたが。 「・・・・・・・・・・・・・すー・・・・」 「・・・・・・・・・・」 返ってきたのは寝息だけ。 まあ、正直、大きな声とは言い難かったので今度はもう少し意図的に大きな声を出してみる。 「起きて下さい、お嬢様。」 「・・・・・・・すー・・・・・」 「お嬢様!」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・すー・・・・」 「おじょ・・・エミリー。」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・すー・・・・」 結果、残敗。 最終手段の名前呼びまで繰り出したのに、微動だにしないエミリーにジャックは頭を抱えた。 朝、ペンデルトンがエミリーを追い立てている姿にあまり朝が得意でないのは気が付いていたが、むしろ朝が苦手というよりは寝汚いのだろうか。 (これは、揺り起こすしかない、のか?) 声をかけただけではらちが明かないとなれば、それしかないだろうとジャックはエミリーに手を伸ばしかけて・・・・固まった。 (ど、・・・・) どこに手をかけたらいい? ジャックの脳裏に浮かんだこの疑問を聞いたら、ペンデルトンは盛大にため息をつき、小林あたりは笑い転げそうだが、ジャックは本気で困ってしまった。 (いや、だって・・・・) 眠り姫の如く眠り続けるエミリーは、どこもかしこも綺麗で柔らかそうで。 (・・・・っ) 表向きは秘密とはいえ、エミリーはジャックの恋人である。 抱きしめたことだって、その唇に触れたことだってある。 けれど、それがかえって今は災いした。 とっさに口元を覆って視線をそらしたが、触れている頬が熱くなってくるのが、余計な事を思いだしてしまったことを証明していた。 ぎりぎり本を押さえている白い手が、嘘みたいに華奢なこと。 抱きついてくる体の泣きたくなるぐらい優しい温もり。 腕にすっぽりと抱き込んだ時の甘い香り・・・・。 「〜〜〜〜っっ。」 (考えるな!考えるな!) 加速度的に上がっていく鼓動に慌てて釘を刺してみるが、普段は使用人としてきっちりと取っている距離が曖昧になっていたせいか、あまり効果は上がらなかった。 むしろ、逆効果だとわかっていながら視線が眠るエミリーへと戻ってしまう。 「・・・・・・」 時折ふく柔らかい風が運ぶ薔薇の香りが冷静な思考を霞ませる気がした。 「・・・すー・・・すー・・・・・」 木漏れ日を受けて白く輝く頬、寝息を零す薄く開いた唇。 真っ直ぐで澄んだ青い瞳が瞼に隠れていることだけが少しだけ残念な気がした。 「・・・・エミリー。」 起こすためではなく自分でもほとんど無意識に呟いた彼女の名の響きに甘いそれが交じった。 庭のどこかで聞こえる小鳥のさえずりにかき消されてしまうほど小さなそれは、それでも自分でも呆れてしまう程、彼女を求める響きをしていて。 春の日差しに眠る眠り姫。 触れる場所にすら困ってしまうほど綺麗な彼女を起こすべきは、本当は夜の呪縛から逃れられない自分では役不足なのかもしれないと、ちくりと心の奥が痛む。 けれど、吸い寄せられるようにジャックの手はエミリーの頬へと伸びていて・・・・。 「・・・・?」 頬に触れるか触れ無いかという刹那、ぴくり、とジャックは手を止めた。 そして、しばし。 「・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・」 チチチッ、ピピッ。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・すー・・・・・」 小鳥のさえずりと梢の木の葉の音だけが彩った沈黙をへて、ジャックは頬に伸ばしかけていた手を、不意にずらすと。 ―― むに。 「・・うむっっ!」 色気も素っ気もない仕草で人差し指を押しつけたエミリーの唇から、驚いたような声が飛び出した。 と、次の瞬間、ぱっちりとその瞳が開いて不満げにジャックを睨み付ける。 「ひ、ひどいわ、ジャック!何するのよ!」 「・・・・その言葉はそっくりそのまま、狸寝入りをしていたお嬢様にお返しします。」 「うっ。」 素晴らしく淡々と返されたジャックの言葉に、エミリーはバツの悪そうな顔をした。 「た、狸寝入りなんて・・・・」 「・・・・・・」 「し・・・てた、けど。」 一瞬、誤魔化そうと試みたものの、いつになく真っ直ぐなジャックの瞳にあえなくエミリーは白状する。 (まあ・・・・俺が気がついたのもついさっきだけど。) さっき触れようとして、寝息が不自然に乱れている事や、うっすらと赤く染まった頬で気が付いたが、今のエミリーの様子をみると結構前から起きていたのかも知れない。 スペルバウンドの暗殺者だった頃は、周囲の気配にはとにかく敏感だったから、あの頃に比べたら鈍ったな、と思うものの、こんなちょっとしたエミリーの戯れに巻き込まれる事ができるのが少しくすぐったくもあった。 しかしそんな事を考えていたジャックの沈黙をどう受け取ったのか、エミリーは慌てたように体を起こすと言った。 「違うのよ?普段はこんな風にみんなを困らせたりしてないんだからね?」 「え・・・・?」 「ちょっとした出来心だったの!眠ったふりをしてたら、ジャックがどんな風に起こしてくれるのかしらって・・・・。」 困らせてしまってごめんなさい、と続けるエミリーが、叱られた小型犬のようにしゅんっとしてしまって、ジャックは一瞬動きかけた自分の手を自分で止める羽目になった。 「・・・・今、そんな事言うな。」 昼間(使用人の時間)じゃ抱きしめる事もできないのに、という思いを込めたジャックの呻きに。 「え?」 きょとんと首をかしげるエミリーに、ジャックはため息をついて言った。 「それで」 「?」 「俺の起こし方ではお気に召しませんでしたか。」 いつから狸寝入りだったのか正確にはわからないが、最後の起こし方が正解とも思えない。 というわけで、何となく問うたジャックにエミリーは少し目を丸くして、すぐにかあっと頬を染めた。 「?」 「ご、ごめんなさい。違うの、なんでもないの!ジャックがそんな事するはずないってわかってたんだけど、ちょっとだけね!ちょっとだけ・・・・お伽噺みたいな、こと。」 (あ・・・・) 最後の最後に、小さく付け足された言葉とともにエミリーが一瞬だけ唇に触れたのを、ジャックは見てしまった。 五月の庭の・・・・眠り姫。 「えっと、何か用があるのよね!?」 微妙な沈黙を破るようにことさら明るくそう言うエミリーにジャックは頷いた。 「ペンデルトンさんが」 「あ、何か仕事かしら。じゃあ急いで行かなくちゃ!」 ジャックの言葉にほとんど被せるように言うと、エミリーは本を置いて立ち上がる。 ストロベリーブロンドの髪を揺らして、お嬢様らしくない勢いでエミリーが歩き出そうとした瞬間、思わずジャックはその細い手を掴んでいた。 「?ジャック?」 どうしたの?と問いかけてくる青い瞳をジャックは見つめた。 いくら恋人と言っても、世間的に秘密な以上、人目に付くところで親密な事をするわけにはいかない。 それでも・・・・エミリーに幸せな顔で笑っていてほしいから。 ジャックは自分の人差し指を唇へ持って行く。 ―― さっき、色気も素っ気もなくエミリーの唇に触れた、その指を。 「!!」 驚いたようにまん丸く見開いて見つめてくる青い瞳に、僅か数秒で耐えられなくなったジャックはぷいっと横を向くと、小さく付け足した。 「・・・・今度、な。」 我ながらなんて不安定で不器用な約束だろうとは思った。 第一、今度なんていつあるんだとか、狸寝入りなんかさせちゃだめだろとか、いろいろ頭はよぎったが。 「うん!今度、ね。」 晴天の空にも負けないぐらい、嬉しそうにエミリーが笑うから。 「いけない!早く行かなくちゃ怒られちゃうわ。」 「・・・・ああ。」 スキップでもしそうなほど軽い足取りで東屋を出て行くエミリーの後を追いながら。 (・・・・今度、があったら、理性との闘いだな。) ―― はあ、とはき出された前途多難なため息は、五月の風に溶けたのだった。 〜 END 〜 |